春のフォーラム&第2回桜葬メモリアル





老後の安心の条件
 こんにちは、上野千鶴子でございます。私は、夫なし、子なしで生きてきました。だんだん年をとってきますと、死別・離別などでまわりに「おひとりさま」が増えてきます。みんな最後は「おひとりさま」になります。なんだ早いか遅いかの差じゃないか、というのが超高齢社会です。長寿になればなるほど最後は一人になり、90歳代にもなれば息子、娘に先立たれる高齢逆縁も予想しなければならない人類史未踏の時代を迎えます。そして、「おひとりさま」になっても「私は一人で暮らす」という人が増えて、高齢単身世帯が激増しました。
 いま、高齢単身世帯の人が、在宅で安心して老いていける条件は何かを調査研究しています。高齢社会をよくする女性の会のデータによると、会員の自己名義不動産所有率は7割。年金は十分ではないがそこそこあり、介護費用もそれでまかなえる。通信手段もいろいろあって、特にパソコンは、あんなに世界とつながれる便利な道具はありません。  高齢者が一人でいるとそれだけで寂しいというのは偏見で、自分のネットワークを築き上げてきた人たち、日本語で言うと「縁」と申しますが、縁をこれだけ結んだ人たちが、一人暮らしをしていても寂しいとは、私は夢にも思いません。
 一昔前、時間持ち・時間貧乏の調査研究をし、二つの発見に行き着きました。一つは、時間は一人ではつぶれない、二つ目は、時間はひとりでにはつぶれない。時間をつぶすには、一緒に時間を過ごしてくれるパートナーが必要です。一人遊びができる人もいますが、人と一緒につぶすのが一番。
 一人でつぶせない空漠たる時間が目の前に広がった時、それが地獄にならず豊かな時間となるには、もう一つ時間をつぶせるスキルがあることです。小さいときから培ってきた芸事、趣味、極道、この類のメニューが多い人や遊びなれた人の老後は豊かです。遊びも、人間が生きるうえで非常に大きなスキルになります。人生とは死ぬまでの壮大な時間つぶしと考えれば、それを仲間とできるだけ豊かに、はた迷惑にならないようにつぶす。そういうノウハウやインフラを持っていれば、一人でいたい時には一人で、二人でいたい時には二人で、大勢で賑やかにしたい時にはそうできる。今日ここにお見えの皆さんは、それだけの縁もノウハウも培ってこられた方たちだと思います。
「孤独死」はこわくない
 いま、一人暮らしの人が死ぬことに対する恐怖心を煽り立てるメディアがいろいろあります。死ぬ時も人様のお世話にならないようにと、PPKっておわかりですか?
 外国語ではなく「ぴんぴんころり」という日本語の略です。死ぬ前日まで元気で、ある朝ポックリと死んでいる。気持ちはわかりますが、私はPPKと聞いたとたん、背中に寒気がゾゾゾッと走り「ファシズムや」と思いました。
 データを見ますと、終末期を迎える高齢者の寝たきり期間の平均が約半年です。半年はどなたかの世話になることを覚悟しなければならない。寝たきりという状態で長い期間療養生活を送れることは文明の証だと思います。衛生水準と栄養水準と医療水準の高さを自分たちの力でつくりだし、半年寝たきりができることを、どうして喜べないのでしょうか。安心して寝たきりになっていただきたい。
 最近、孤独死が大変問題になっています。実はその死に方をするのは高齢者ではなく、55歳から65歳までの男性が圧倒的です。孤独死の前に孤立した生がある。孤立した生を送っているわけではない私やあなたは、孤独死は関係ないとわかります。人間関係を家族内外に培ってきた人たちにとって、孤独死は恐れるに足りず、です。東京都監察医務院に勤務する小島原将直さんによると孤独死とされる遺体のほとんどが「短時間死」だそうです。死ぬ直前まで一人暮らしをして、短時間死をした、幸せな人たちではないか、というのが私の見方です。死後24時間以内に発見されるシステムだけは対策しておきたいものですが。
死後に遺すもの
 一人で生きてきたように一人で死ぬ。そのとき親の死に目に会えなかったとか、親しいあの人の死に際に間に合わなかったというのは生き残った人の問題であって、死ぬ私の問題ではないということです。
 とはいえ人は死んだ後に遺体をのこします。遺体や遺産の整理は自分以外の人にやっていただかなければならない。そのために遺言を書くのです。職業柄、蔵書がたくさんありますが、そういうものはできるだけなくし、親しい人の記憶に遺ればよい。その記憶も、その人の死とともにこの世から消えていく。
 その後にも桜の花は咲くでしょうか。咲くでしょうね。年をとってしみじみ思うのは、今年も花見に間に合ったなとか、この花は私が死んでも咲いとるやろなぁとか、私が生まれる前から咲いてたやろなとか。私の生まれる前からここに森があり、自然があり、海があり、桜があり、私が死んだ後もこの自然があるということは、なんと素晴らしいことだろうと。今日この桜葬にお集まりなった皆さんは、おそらく私とこのような思いを分かち合ってくださる方がただろうと思いここに参りました。


パネリスト 上野千鶴子さん、小川英爾さん、柴田千頭男さん、井上治代、碑文谷創さん(進行)

碑文谷 会場からのご質問、「尊厳死」についてお聞きします。
上野 尊厳死は、自分で意思表明するわけですが、その意思表明には、2007年3月31日と日付が入ります。人は日付の意思を持ちこたえることができるだろうか、という疑問があります。死に直面した人たちがある時は死を受け入れ、ある時は受け入れられず、迷いと混乱の中にいるのを多々見てきました。意思を持ちこたえる、首尾一貫性があることが優れたことだとは言いたくない、というのが私の気持ちです。
小川 私自身も結論が出ていません。本当に悩んでいます。医者に臨終だといわれても耳は最後まで聞こえていると昔からいわれていて、名前を呼び続けなさい、そしてしばらくしてやっぱりもうだめだね、となったら、鐘をたたくんです。カーン、カーンと。もう行っていいよ、もう呼ばないから、安心して行っていいよと。父が亡くなったとき檀家のおばあちゃんが教えてくれましたが、昔からの知恵に感銘しました。生物学的な死、あるいは脳死だといわれても、尊厳死という形で機械的に科学的に処理してしまっていいのかという思いは非常に強いですね。どうあるべきか、私自身まだわからないし言えません。
柴田 私は教会の牧師を50年務めてきましたので、キリスト教の立場でお話しします。私たち夫婦の仲人さんは、二人とも尊厳死を選びました。お二人を見ていて、死ぬ時に自分の意思を貫き通すのは大変であり、自分一人で決めて実行できるものではないと思いました。医師の協力、家族の協力、そして意思を貫く力、この三者が揃い、了解したとき、自分の死を選びとる生き方として、尊厳死はあるのではないかと思います。
井上 入院した経験から言いますと、その時どんな心理になるのか、元気なときとは違った考えになります。その状態になってみないとわからないということはあると思います。しかしある程度意思は残しておきたい。こうなったらこうしてくれとか、痛みは取ってくれとか。わからないから言えない、何も書かないというのは私自身よくないと思っています。 碑文谷 高齢者の方が、家族に迷惑をかけたくないという意識がすごく強いです。超高齢社会になって認知症の人や寝たきりの人が多くなっています。私の母も93歳で認知症です。連れ合いの母は90歳で、頭はしっかりしていますが動けません。こういうことをどのような形で社会として、あるいは個人的に受け入れていったらいいのでしょうか。
上野 家族の老後を家族だけで責任を持たなくてもいいという、社会的合意ができたのが介護保険です。介護保険の前と後ろでは負担がずいぶん違うと思います。しかし、今の介護保険制度はとても不十分です。高齢単身者所帯を基本にした仕組みに変えることが必要だと思っています。
碑文谷 そういう家族を抱えた場合、介護保険があっても家族が世話をしなければならない、そうせざるをえないと思ってしまうのですが。
上野 そのように割り切れないなら別居してパート家族をしてはどうですか。1日8時間だけおばあ様の所に通う。あとはヘルパーさんにまかせる。九州のある地方都市ではお嫁さんは働いているので、要介護4や5の人が昼間8時間一人でいます。巡回ホームヘルパーにまかせるのです。お嫁さんが仕事をやめて家にいたら息が詰まって家族崩壊を起こしてしまう。だからパート家族をやる。そういう考え方もありかなと思います。
小川 80過ぎの母の介護をした時、子ども4人が2歳、1歳、0歳の双子で大変な状況でした。その時妻が「ペーパー離婚しよう」と言いました。私はあなたと一緒になって寺の仕事は手伝っているが小川家の嫁になったつもりはない。あなたには姉・兄がいるのに、なぜ平等に介護を負担してくれないのかと。最終的に母が施設に入ったので助かりましたが、その時、家族とはなんなのだと思いました。
柴田 実は家内が要介護認定を受けていて、ここ2年ぐらい私が面倒を見ています。大変ですがそれだけではない。一日3食私が作っていますが、「おいしい」と言ってもらえると、これまでにない幸福感でいっぱいになります。私の場合、4人の子どもが支えになりましたが、少子化の状況では社会全体が背負っていく体制が必要だと思います。
井上 私は父母と姉を看取りました。大変だったと思ったことは一度もなく、それぞれの終末期を見させてもらって心構えもできてよかったと思っています。私は親を看取りましたけれど、これからは家族も含めそれ以外の人たちと、介護の社会化だけでなく死後の社会化、死者儀礼の社会化を考え、実現していきたい。
碑文谷 最後に「千の風になって」を切り口に死生観を伺いたい。
井上 この歌は、近親者を亡くして悲嘆にくれている人へ、「死者はいつも自然の一部になってあなたのそばにいるよ」というグリーフワークの歌ですね。  宗教が示してきた伝統的な他界観(極楽浄土)の意味が薄れ、いのちや死について教える教育の場もなく、人々は死生観が持てなくて長い高齢期を先の見えない不安とともに過ごしてきました。この歌が流行ったことで、自分はどう生きるか、どう死ぬかということを考えはじめたことに意味があると思います。
小川 お経の一説に、お釈迦様はこの世から姿を消すが、あなたの側にずっといて永遠に見守り続けるとあります。あの歌で、現代人も気がついてくれたかと思います。
柴田 ヘブライ語に「ザカール=想起する」という言葉があります。自分は連綿としてつながったものの一つとしてここにあるという意識は、非常に重要で、墓は一つのザカールだと思っています。 上野 私の大事な人には、私が死んだら3日間大泣きしてほしい。そして4日目にはすっくと立って歩いてほしい。「Two people together is a miracle」という詩があります。人が二人共にあることは奇跡だ、という。何かを得て何かを失うのは生きている上で当たり前のこと。一人で生きてきて、一人で死んでいくというのが基本だと思います。だから誰かが自分と何かを分かち合うことがこんなにもありがたい。

朗読 木村育子さん
「桜の花を待つこころ」 作・井上治代& 桜葬オリジナル曲 (作曲・日衛嶋靖彦)


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